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時間って早いねー・・・

メイプルを無断でアンインストールしてからもう
1年半が経ちました。

いやぁ~。。。どうしてあんなことしたんでしょう?
って聞かれたら、「やめないといけない気がしたから」です。

お金が問題っていうわけじゃないんだよ?
ただね、時間がね。。。
「時は金なり」「金は時なり」(?)
って言ったら確かに金が問題だとも取れるよね。

少しさびしさを感じ始めたの?
とも聞かれたらYESとしか言えないなんだよなぁ~・・・
まぁ別に学校生活に集中したからと言って
満たされたわけじゃないんだけど、
そうしなければならなかったんだよね。
大体学校のせい!とも割り切りたくないんだよねー(’A

真面目な記事は書かないの?
真面目な内容だけど
自分のフォーマットに少し飽きていたし
頭で考えて後々爆発させたほうが
ええんとちゃう?とも思っているー。
駄菓子菓子、忘れたら意味ないけどね('A

メイプルはですね、来年の1月ぐらいに
復帰しようかなー?どうしようかなー?
という気分です。言ってもガッチガチにやるんじゃなくて
メイプルのBGMを聞きにいくという雰囲気で
気長に何もせずゆっくりとやっていく感じです。
今までの関係ではいられないけど
放浪したり、たまに拡声器で何かアンケート取ったり
あくまで「娯楽」にとどめておくつもりです。
「メイプルは遊びじゃあないんだよ!!」という
レベルまでやっていたと思うからね、今までは。

狩に誘われても('A。。。って返信しちゃうぞ・。・♪


過去を振り返って。。。
あぁー、そんなことも思っていたねーwww
過去の記事を見ると恥ずかしくはならないけど
「そういえばそんな風に思っていたな昔は」
信仰を強く保ちながら~ゆるゆると。
とにかく今は疲れているから、
水に流そうぜという気分ですね。
いやー昔は本当に尖っていたねー
しかも凶悪なことに何だかんだで
良い情報を持ち上げているから(攻撃的だが)
自分自身の記事にも反論しにくいんだよねー。
まぁ所詮ガキはいつまでたってもガキなんだよね。

どうして今記事書いているの?
最近ね~ゲームしたい!休みたい!
という衝動がね抑えられなくなってね。
さすがに教育的じゃないというか、
ワンパターンすぎるから代わりと言っちゃあ何だけど
タイピングの練習+言葉の使い方の練習程度に
ブログを更新させて行こうと思っているんだよね。
まぁ今までの知り合いがコレを読んでいる
可能性がメッサ低いわけなんだが。。。

今後どんな記事書くつもり?
自分のキリスト教の考え方を文字にしたような
記事もあれば、
自分の日常を振り返るような記事も。
まぁ後者のほうが読まれている可能性大なんだけどね。
あ、これからはちゃーーんと
注意書きも書いておくね。
けど絶対にしないことは
過去の記事を変えたり、補足したりすること。
過去の記事に対してコメがあった場合コメ返信するけど
コメの内容に反撃するようなコメはしないということを
頭に入れておくね。

どうしてこんな曖昧にするかと言うと
「昔の自分も今の自分の一つ」と思っているから
生まれ変わりは1度だけ、とも信じているから。
だから昔の記事を改変することは
自分自身に指摘して裁くようなことだから。
指摘はするかもしれんが流石に裁けんわな。

最後に
まぁ、来て下さるなら
ティーを出して一緒にアフターヌーンティーを
楽しむ感覚でくつろいでいってくだし・。・♪
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最近は自分に諮問している

注意、この記事には自分の思想が100%入っていて
十人十色という諺があるように
意見が食い違ったり
「なんでお前そんなこと考えているの?」と
思わせるようなことがあったり
他の人を知らないうちに傷つけてしまうような
言葉が含まれております。
反論は至って自由ですが、その際は
「こういう風に記事を書いたから」という風に思ってください。
ヨロシクお願いします。

つい最近
「悪魔学」という本を本屋さんでみつけて
読まないといけない衝動に駆られたんよ。
ナルニア国物語シリーズで有名な
C・S・ルイス氏もね「悪魔の手紙」という本を
書いているんだよ。

悪魔の手紙の説明からすると、
CSルイスはとっても優秀なクリスチャンで
まさにクリスチャンの見本と言われる方です。
そんな彼はクリスチャンとして自分自身に
剣を心に刺すような質問を自問し、
それに対する答えを書いたものです。
ですが、ただ単に彼のコメントが書いてあるのではなく
「もしも悪魔が人間をイエス・キリストから
離れさせたければどんな手段を用いるか?」という疑問を
基に、悪魔の視点から見たイエス・キリスト(敵と書いてある)から
離れさせる方法の手紙を、本にまとめて書いたのです。

個人的にはクリスチャンにとって必須ですね。
自分が本当はやってはいけない事、
悪魔が喜ぶような行為をしていると思う時に読むと
「あぁ~。。。やっちまったな」と感じながら
それを改正し、改正することが成功するように
お祈りしなが読む本です(クリスチャン視点)。

非クリスチャンの方々が読む場合には
「悪魔ってこんなことも考えるのか」と
悪魔の囁きに答えるというのは
こういうことなのかと思える本です。

で、この「悪魔の手紙」に追撃を加えるような
本が「悪魔学」です。
悪魔学っていうのは最初の数ページしか
読んでいないがキリスト教をベースの一部にしている
本です。
悪魔がどこから来たのか、
みんなが(ほぼクリスチャン)「悪魔はこうやってできた」
という説が書いてある本です。
単純にその悪魔の役目とかも書いてあります。
そのほかにも悪魔と関連していると思われる
(悪魔の証明に則っての表現です)事件が
記載されています。
面白いですし、個人的に(クリスチャン的に)
「えぇ~ここは違うだろー」と本に反抗する点も多いので
読んでいて眠くならないですw(どういうことダョ!)

ですが共通して言えることは悪魔は非クリスチャンにも
クリスチャンにも働きかけていることです。
悪魔の一番捕らえやすい人々は
「悪魔なんているわけがない!」と断言しているタイプの
人間です。

私は、個人的に(ここ重要)悪魔の証明に則って、
クリスチャンとして悪魔の存在を否定できません。
だからと言って完璧に信じろとも言いません。

ですがたまには
「あ、これって悪魔の仕業なのかも」と
思いながら自分の方に居座っている
右肩の天使と左肩の悪魔をイメージしながら
少し自問自答をしたほうが
悪魔からは逃れやすいですよ。

信じられないと思いますが、こんな私も
クトゥルフ神話trpgが大好きです。
というかいつかセッション開こうかと思ってもいます。
これは別にクトゥルフ神話を信じているわけではありません。
ただ「フィクションの一部、一部~」と
ハッキリと(明確に)捉えながら遊んでいます。
別にこれによって自分が信仰から離れたとも感じません。
同時に悪魔も存在するとも思っています。

本当に個人的な意見なんですが
クトゥルフ神話というのは悪魔の最悪な形を
そのまんま言葉にしたようなフィクションだと思うんですよ。
つもり空想から生まれた物とも取れます。
空想を100%信じる気はありませんが
そんな悪魔がいるかも知れない程度に構えておけば
「悪魔を信じない!」という理論とは
食い違わないと思うので、個人的に
みなさんもそう思ってくれると心から安心します。

「キリスト教も空想の出来事なんじゃないの?」
↑とりあえず勉強しましょうか^^;

趣向性型自由反対論

<無意味スペース>宿題をやってから次の記事を
書こうと前の記事で思っていたが、見ているドラマが
以外にも面白かったので記事を書くことにした。

今回は「自由」を私なりに徹底的に反論していく。
今回の記事はどっぷり洗脳させる気満々です。
どうかこの記事を読むときは自分なりの
考えを強く考えながら、
この記事に対して反対的な意見を強く持ちながら
読んでください。

私達は「自由」を大きく見過ぎている、故に私達が
言う/語る「自由」は本当は脆く存在しないに近い。

私達は長い間自由がずっと共にあると信じていた。
それは政治やメディアが散々自由という言葉を使っているからだ。

私の反論は、どんな思想の背景にも色んな種類の趣向があると思うからだ。
つまり私達の選択は常に何かに後押しされていると思う。
後押しの強さはわからないが、第三者からの押しがあった時点で
そこには自由が無い。

例えを出せば早いだろう。

例え1、生徒の自己防衛。
生徒は自己防衛をより強く気にする趣向がある。
何故なら生徒は自分は弱い立場に居るからだ。
受験という勉学に励まないといけない期間、
反抗という自立に全力を尽くさないといけない期間、
自分の倫理を確証させないといけない期間。
これらの期間もあるし、全体的に生徒は
社会から一番遠い位置に存在する。

つまりこれらの期間の中に発生する不安と
社会から遠い位置に存在しているという不安が
まだ未熟で成長中な生徒には巨大な負担だ。
故に私達はそれらの負担を全般的に自分を守る必要がある。
物理的にも精神的にもだ。

その潜在的な不安/降りかかっている不安が生徒達に
自分を防衛するという趣向を与える。

つまり生徒達が自己防衛することは
自分なりに考え、自由に選んだ答えではなく、
普遍的に降り注ぐ不安から勝手に持たされた選択なのだ。

そしてもう一方の、自己防衛しないという選択を持つということも
「この不安に対して徹底的に戦おう」という趣向が働いている。
つまり今私は「この不安に対して徹底的に戦おう」という趣向によって
この記事を書いている。決して私の自由意志の元によって
生まれた倫理ではない。

この趣向は私の言葉で言うと
反対的趣向だ。自分に直接影響のある趣向に反対するために
生まれた趣向とも言う。つまり直接的な趣向が無い限り
この反対的趣向は生まれない。

たとえ2、政治に対する反応
私達は民主主義国家に生まれているから常に自由を
持ちながら政治に参加していると思っている。
だが本当に良い政治というのは経済、歴史、地形によって
大きく変わる。

イギリスでは団結力が歴史的に生まれているし、
地形による団結力の必要性というのも出てきている。
故に、ランクが存在するイギリスでは
上流階級はほとんど皆A党に投票し
中流階級はほとんどB党に投票し
労働者階級はほとんどC党に投票するという
趣向が存在していた。
(補足1、最近は消え始めている)
(補足2、ほとんどと書いている理由は、ほとんどではない人達によって
与党が決められているからだ)

日本にも集団心理学に面白いようにハマっている。
いわゆる流行や流れに乗りやすいという趣向がある。
メディアがより強く、A党が悪いという指摘をしたら
そのメディアに乗っかってB党に票を入れ始める。

集団性が高い日本では、悪い点がより重視されるということが起きれば
その党の良いところを言う人が減少する趣向がある。
つまり日本人は自分が票を入れた党を守る気は薄く、
代わりにあんまり叩かれていない党に票を入れる。

そしてなぜ私達が悪い点を重視し始めたかというと
日本の経済の堕落が目に見えてわかるからだ。
失業率の高騰や、大学3年生の就職に対する強い不安。
生涯終身雇用の破綻により人々がより不安を
感じやすくなっている。その不安をぶつけるために
悪い点を指摘しているのだ。

そしてこれらは日本人が愛国心や祖国の精神的な意味を
理解している人が少ないという趣向にも連携している。
とある記事(忘れたが)大学の教授が自分の生徒に
「祖国とは何か、説明しなさい」と論文の課題を
与えたが大多数が結果的によくわからないと答えた。

最後に日本に愛国心が少ない理由としては
第二次世界大戦後に起きた、愛国心の崩壊が原因だと思う。
天皇の「私は神ではない」という発言や
大和魂という言葉が今では薄れているという現象を
鑑みるに、第二次世界大戦後の愛国心の崩壊は
十分支えられている。

このように私達は「自由に」投票していると
思っているが本当は歴史的、地理的、経済的に影響されている。
こんなにも「後押し」が多いというのに私達は
本当に「自由」な判断を下せているのだろうか?
答えは否である。
自由であるハズの投票にも常に何かの趣向が潜んでいる。
これらの趣向を踏まえた上で私達は
勝手に自由と呼んでいる。

趣向に依存しているというのに
自由と叫んでいる様子は私の目からしたら
滑稽そのものである。
もちろんこの滑稽だと思う私の感情も
「そういう趣向があるから」という反対的趣向が
働いているのだ。つまり私の倫理や感情も
自由意志ではなくさまざまな趣向と共に
不自由に生まれたのだ。
つまりこの記事そのものが滑稽極まり無い記事なのだ。

生徒としての義務とは?

ちょこっと学校で親友が問題になっているので
こちらで取り上げたい。

今回の問題は、生徒は他の生徒の頑張りを見守る必要があるのか?
という質問に答えたい。

注意、この記事は全体的に「そんなの人それぞれ」で
答えられる質問です。だけど、もっと詳しく考えたい場合のみ
このページに居残ることを推奨します。

問題に戻る、私にはちょっと問題を抱えた友人が居る。
精神的に問題があって、とても高飛車で相手に理解されないぐらい
突発的なのだ。故に、その友人の勇気/宣言を
意味不明、という終止符をうつ生徒が多い。

その友人は去年、私の学校に合わないと思い、
友人自身の精神的な問題を把握し出ないといけないと思い、
他の学校へ移った。

他の学校へ移る時に、無料で泊まれるという条件で
先生の家に泊まりながら学校へ通うという生活を送っていた。
だが、そちらの先生がPTAから問題を指摘され
この学校に戻らなければならないのだ。

友人はその問題が指摘される前に私の学校に居る
とある女子にラブレターを送った。
だがそのラブレターがあまりにも
ロマン性や表現を気にした書き方で
(いわゆる、今では信じられないようなラブレター)
その女性はラブレターを読んだ瞬間キモいと思い
他の人にも見せたそうだ。
(他の人にも見せたというより、他の人も見ていた
という可能性がある。つまり私はあんまりそこは詳しくない)。

私の視点からすれば、その友人は勇気を振り出し
ラブレターを書いたのだ。そのラブレターは今の
世代に会わなかっただけだ。だがラブレターを書いた事に
意味はあると思い、友人の精神的な成長を感じた。
女性のラブレターの反応からして、まだ誠心しないと
いけない部分はあるかも知れないが、友人の頑張りを感じている。
そして私はそれを大変良く評価している。

だが女性は、そのラブレターをもらった夜、
他の女性が居るにも関わらず、ストーカーに
見られているような不安があると間接的に言った。
そしてその不安に便乗して、その友人には
この学校には戻ってきてほしくないと言っていた。

つまり、その女性は私とは正反対の意見を持っている。
別にその女性に付き合えとは言わないし、言えない。
だが、あまりにも自分の感情に乗って嫌悪感を
出しすぎているのではないかと思う。

ここで感じ取ったのは生徒を応援する義務と
生徒を嫌う自由だ。
私の母は生徒と生徒は対等だから自由はあるべきだと
言っている。

だが生徒として、生徒の中にも自分勝手に優位を作っているハズだ。
見下しとも言う(今回だけはその見下しを許してもらいたい)
生徒が他の生徒を上回るというステータスを持っている時点で
その優位な生徒は下位の生徒の頑張りを見守る義務があると思う。

まるで共産主義に近い感覚だと思う人も居るが、
お互いがお互いを支えあうという根と同じということを
考慮してもらいたい。

自分に対する反論として、支えなければいけない生徒が
元凶だとしたら私達は見守ることを忘れたり困惑することもある。
それは一般的で自然的な反応だということも認める。

反論2、その優位な生徒は下位の生徒を支えたら
自分の位を保てなくなる、学校で言うと自分の
成績を保てなくなるとも言う。つまり
一緒に落ちぶれてしまうリスクもあるということだ。

だが自分が考えた「反論」の反論を書こう。
この二つの反論は自己防衛機能の一部だと思う。
私は「自分の隣人を自分のように愛せよ」という
信念を持っているので、自己防衛機能を使うぐらいに
他の人も愛さないといけない/守らないといけない
と思っている。何故ならその精神のほうが
ただの自己防衛機能より優位だと思うからだ。

この信念の盲点は、この信念を私が勝手に
優位だと思っている点だ。
他の人が「自己防衛機能のほうが大事だ」と
言うことを理解するし、その人の状況が
そういう風に思わせたということも理解する。
だが、その考え方を私は尊敬できない。

今回のポイント
・応援する義務と感情を出す自由
・自己防衛機能の大事さ
・私はお互いを支えあいたいという精神を重視しすぎている

近い将来、次の記事を書こうと思っている。
私はこの記事を最後まで読んで頂いた方を
洗脳するように書いたつもりは無いから
この記事を読んだ先のことに責任を持つつもりは無い。

長文失礼した。

優先順位

やぁ、久々に書く記事がこんな記事だとは誰も想っていないだろう。

今回はプロテスタント派としてイエス・キリストのどの部分を
より意識して信仰しているかを説明したい。
同じキリスト教には大きく分かれてカトリック、プロテスタント、そして
オーソドックスになる。地域や分裂した原因が違うが故に
私たちはイエス・キリストに向かってはいるが趣向(信仰方法というべきか)が
妙に違ったりする。

だから今回は俺が知る限りの(無論正しいわけではないが)
プロテスタントが何を優先的に考えているのかを説明したい。

プロテスタントはマルティン・ルターが整理したキリスト教宗派だ。
当時、16世紀の初めはカトリック波乱の時代と彼の日記に書いてある。
何故ならカトリックの中心とも言われるローマでは
「ローマ人には信仰が見られなかった」のだ。
その日記の技術の数年後、彼は論文のようなものを教皇に公開したが
教皇側もそれとなく理由を並べるだけであって、彼が満足するような
結果は返ってこなかった。そこから彼はプロテスタントを作った。

彼が行った事はキリスト教を簡単、明確にすることだった。
それは聖書に帰ることだった。
「聖書に書いていない文化は全て取り除いた」とブリタニカに書いてある。
同時に、聖書に書いてあることがキリスト教の真実だと受け止めた。
つまり、キリスト教の本来の信仰の仕方は聖書を片手に
教会としてみんなと集まり、聖書の内容を信じることだとルターは定義した。

上記のことを事実として扱った場合(プロテスタントとして)
聖書は優先的になる。ではその聖書の中でも旧約聖書を割愛して
新約聖書について説明する。

新約聖書でのさらに大事なところはイエス・キリストが
現世に居た時に使徒によって書かれた部分だ。
イエス・キリストは難解ではあるが、さまざまの慈悲深い
奇跡を起こしてくださった。一番有名なイエス・キリストの
奇跡は三日後の復活である。

賛美の中には「イエス・キリストは我々のために死ぬられた」と
書いてある。これも事実だが、三日後に蘇るための理由にはならない。
確かにイエス・キリストは死んだがそれは彼の計画のうちの一つだ。
死の待合室へ逝かれたのだ。
(表現が曖昧だが、この時点ではまだ地獄や天国という
意味ではなく、黄泉というまだ分けられていない死の世界ということを示す)。
それはイエス・キリストを知る機械が得られなかった人たちがたくさん居て
彼は死の待合室の中で人々を彼の元へ導いてくださった。
そして三日後に伝導を終わらせ現世を戻ってきた。

最後に現世でイエス・キリストが見せた奇跡は
蘇ったあと彼は数日後に「天へ昇った」ことだ。
死ぬられた時は黄泉へ行ったが、蘇ったあとは天国へ行ったのだ。
(今回 逝ったではなく、行ったの理由は明確に言うと
イエス・キリストは彼が来たところから帰ったとも意味するからだ)

聖書に書かれているこれらの奇跡は
イエス・キリストが唯一神だと明確に説明している。
プロテスタントは聖書を中心としている。故に
イエス・キリストへの確実な想い(信仰)
を募らせる機会がより多い可能性が高い。
これは透明で真っ直ぐで、余計な文化が含まれていない
プロテスタントだからこそ言えると思う。

最後に要点をまとめると、
プロテスタントは素直に真っ直ぐに
キリストを信仰することもっとも大事だと思った。
故に聖書の内容だけが真実と捕らえた。何故なら
このシステムは聖書を知る機械がより増える。
聖書を知れば知るほど唯一神である
イエス・キリストを知る機械がもっと増えるからだ。
結果的に曇り無くイエス・キリストを信じられるからだ。

これが今の私であり、プロテスタントの根っこだと思える。
プロフィール

tices

Author:tices
いつもメイプルで嘆いています^^
レベル bishop 154

サーバー 桜、桜いざ咲き誇る(秋ですね

ニックネーム たいc、たいs、
たいしゃん、

自慢したいぐらい忙しいが
そんなヒマがあるぐらいなら
課題として出された本を読むだろう。
学校の高校生活を侮りすぎて
今はとてつもなく躊躇している。

兄上から「高1はただひたすら
勉強すればいいよ。」
コレは兄上がアメリカへ戻る前に
言った俺に対するメッセージ。
何て言えばいいのかまったく
わからず、兄も何も期待していなかった。
だから一方的な一言で終わった。

骨2確になり、
強化に興味なく
イルヴァータも十分に狩れるようになった。
lv150も超えて
今年の目標を全部達成した

続ける理由は?と問われたら
口を閉ざす。だが
自分の不十分な語学では
理由を語るより
そこは相手に察してもらいたい。

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